喫茶の風習が中国から日本に伝来して以来、団茶→抹茶→煎茶へと喫茶文化が変遷していく過程で登場する人々に焦点を当てて日本文化論を展開する一書。

著者の見解では、「茶文化こそが日本文化の体現」であり、茶文化の今後の方向性がこれからの日本人の心の拠り所となっていくであろう、とのこと。

そして、その茶文化が目指すべき方向性として、「侘び」を極めることを重視しているように読めたのだけれど、これには少し違和感を感じた。

本書の全体を通じた茶文化の変遷史は、

・遊興としての茶道



・式礼あるいは修行としての茶道

のせめぎ合いである。ある時期には貴族的な、管弦や詩歌を楽しむのと同様の場で茶が楽しまれ、それに対する反動として「在俗の禅」としての修行の一環としての茶道が行われる。しかしそれが定着してくるとやがて自由闊達な精神が失われ、また純粋に喫茶を楽しむことが重視されるようになる。こうした相互作用の中で茶文化が展開されてきた、という。

たとえば、日本史歴代の茶人たちも、こんにち「茶道」として知られている、茶室で茶道具を用いて抹茶を点てる作法を絶対視していたわけではなく、田能村竹田や池大雅などの文人はこれに背を向けて煎茶を宣揚しているし、柳宗悦は楽茶碗の名物を否定して民芸品に日本美術の本質を見ようとしてきた。

自分としては、そのように展開してきた茶文化の本質は、遊興と式礼とを混在させながらも両者の均衡を図る点にあるのではないかと思った。

ひょっとすると著者が目指すべきとする「侘び」の精神の本質もそういうところにあるのかもしれないけれど、そこらへんの説明は読んでいてもよくわからなかった。

・立派な茶道具をコレクションし、茶室で披露する「数奇」への反動

として、「道具をもたず」「茶室を簡素・質素に」を突き詰めていった考え方として成立した概念のようだけれど、

・家元制度の確立によって、その精神は正しく受け継がれていない

とも評されていて、じゃあどういう考え方なんだというと、はっきりしない。

…少しモヤモヤの残る感じです…。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年7月  >>
293012345
6789101112
13141516171819
20212223242526
272829303112

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索